みんなの体験記CMLランナーズ

小林 淳子 さん

小林 淳子 さん (70代)

CML発症後年数10年目

2008年にCMLと診断され、服用した分子標的治療薬で皮疹など多くの副作用に悩まされたが、3年後に治療薬が切り替わり治療続行。2018年3月からは服薬を中止し、現在無治療寛解維持(TFR)の状態となっているため、毎月通院しモニタリングを欠かさず行っている。

※内容は個人の体験に基づく印象や意見であり、すべての方が同様の結果を示すわけではありません。

取材者より

音楽アーティストとして活躍中であり、後進の指導にも当たられている小林淳子さん。診断から10年を経て服薬をいったん中止し、様子をみるまでになった今、未来を感じられる、とキラキラと輝いていらっしゃいました。

歯茎からの出血で歯科へ

2008年の8月、歯茎から出血がありました。知人から「あなたそれ、血液の病気じゃないの?」と言われたため、翌月、再び歯茎から出血したときには、歯科を受診しました。紹介状を書いてもらい、すぐに近くにある病院の口腔外科で血液検査をしたところ、白血球数が16万/μLと正常範囲をはるかに超え、普通の人の10倍程度にもなっていたことがわかりました。これは大変だ、がんかもしれないと言われ、今度は血液内科で改めて検査をし、そして検査の約2週間後にCMLと診断されました。検査の結果を聞きに行く日は、息子夫婦にも同席してもらいました。結果を聞いたときは「ああ、はい」とすぐ受け入れました
振り返れば、CMLと診断される前から疲れやすく、なんだか調子が悪い、という感じがありました。音楽をやっていてワクワクしているのだから病気になんかならない、だから更年期障害のせいかな、と思いつつ、一方で、どうしてだろう?という思いもありました。ですから、その原因がわかって少し安心もしました
診断直後は、約2ヵ月先に控えていた生徒の発表会をきちんと成し遂げることができるか、そればかりを心配しました。そして、いろいろと悩んだ末、発表会まではCMLのことは生徒たちには黙っていよう、と決意しました

甥からの言葉「memento mori」

CMLと診断されたことについては、親戚にも特に話すつもりはありませんでした。しかし息子から、隠さずに話した方がいいと勧められ、メールや電話などで伝えることにしました。白血病の女優さんをイメージして「美しい人がなる病気ですね」などと言い、みなさん優しく、ユーモアを交えて受け止めてくれました。
今も心に残っているのは、甥がメールで送ってくれた「memento mori(メメント モリ)」(やがて人はこの世を去るという意味のラテン語)という言葉です。それまで、ものごとに感謝して生きてきた私ですが、このmemento mori、つまり、誰もがいつかは死ぬ、という考えを受け入れたら、物や人など一つひとつの輪郭がはっきりしてきて、さらに世界がまぶしく見えてきたのです。
CMLの主治医に、余命について尋ねたとき、重くも軽くもなく「5年ですね」と歌うように言われました。絶妙でしたね。例えば交通事故で突然命がなくなってしまうこともあるとすれば、5年も命をいただけるなら、日々「大切に、大切に」生きて行こうという気持ちになりました。なにしろこのCMLという病気は原因がわからず、誰のせいにもできないわけですから、ギフトなんだ、何か意味があることなんだ、と思ったのです。

副作用が少ないと言われた飲み薬だったけれど

診断されたその日から薬を飲み始めました。当時、治療には分子標的治療薬という飲み薬があり、副作用も少ない、と説明されました。しかし、実際飲み始めてみると、いろいろな副作用に苦しむこととなりました。まず、歌に必要な声が出なくなりました。そして、顔以外の皮膚に紅斑が出ました。また、10年経った今は、一部を除きすべて回復しましたが、手足の爪が全部はがれました。さらにそのような皮膚症状の治療のために処方されたステロイドの副作用で、太ってしまいました。また、直接の原因はわかりませんが、気分の落ち込みも続きました。
副作用がつらかったせいかもしれませんが、病気というのは自分でつくったというイメージがありましたし、自分の命は自分で管理したいという気持ちから、なんとか自力で治したいと思って、いろいろ本を読みました。薬はやめるべき、という内容の本もあり、少しの間、薬をやめてみたことがありましたが検査をしてみたら数値がぐんと悪くなってしまっていたので薬をすぐに再開したこともありました。ただ、主治医はすごくいい先生で、いろんなことがあっても「今度はいつ来ますか」と必ず言ってくださって、いつも寄り添ってくれました
治療を始めて3年ほど経った2011年の2月、白血病細胞が増えたため、治療薬が切り替わりました。再び副作用との闘いになることを心配しましたが、幸い今度は何も起きませんでした。

すべては音楽を通じて―愛をもらったチャリティコンサート

初めに飲んだ薬は、薬価が高くて驚きました。高額療養費制度がありますので、後で費用が戻ってくることはわかっていましたが、最初の4回分は窓口で文字通り「高額」の支払いをしなければなりませんから、その負担は大きかったですね。治療を続けていけるのか、不安になりましたね
そこで、薬価が高いと知ったプロの生徒さんたちに2008年の年末と2009年に『愛さえあれば』と題したチャリティコンサートを開いていただきました。ステージの演出は私がするので、とても大変でしたけれど、たくさんの人に来ていただきました。当時の主治医の先生にも出演していただき、CMLがどういった病気か、というような話をしてもらいました。
音楽は、私にとって人生のすべてです。音楽を通していろいろな気づきがあると感じています。CMLになって、私の中で何かが大きく変化した、ということはありませんが、私を取り巻くすべての人から本当にたくさんの愛を受けました。私は生徒さんたちの前でCMLのことを一切話していませんでしたが、どういうわけか漏れていたようで、あるとき若い生徒さんやピアニストに「私たちは先生を全面的に応援します。先生は影響力が大きいの。『残された時間を丁寧に生きます』と言われたら、その言葉を通じてみんなにいろんな気づきがあるのよ」「生徒はちゃんと受け止めて応援してくれるのよ」と言われました。しみじみと、愛だな、と思いました。
もちろん親しい友人からも愛をもらいました。うつ状態が続き、私が暗く落ち込んだりして「ごめんね、怒っているわけじゃないし、あなたを嫌っているわけじゃないの」と説明すると、余計なことは言わずに「うん、うん」とただうなずいて黙って温かく見守ってくれました。

新しい私になるために

薬のおかげで今も命があることをわかっていますが、私は以前から、可能であれば薬をやめたいと思っていました。薬を飲む=病気、と思いますし、毎日きっちりと飲まなければいけないことへのストレスが非常にありました。また、高齢だから薬を飲ませておけばいいや、と扱われているようにも感じ、それでは未来がないように思っていました。高齢者にも未来があり、薬をやめて、新しい私になりたかったのです
白血病細胞が減って落ち着いてきた頃、通っていた病院で「もう急性期の重大な疾患を診る大きな病院ではなく、近所の病院で診てもらってはどうか」と言われるようになりました。長年通った病院から放り出されて路頭に迷った気分になっていたところ、生徒さんがCMLの治療薬をやめた患者さんの記事が載っている新聞の切り抜きを持ってきてくれました。私は記事を読み、その患者さんにFacebookでコンタクトを取って事情を伝えたところ、患者さんがすぐに私を先生につないでくれたのです。
そして昨年の3月からその病院の血液内科に通うことになりました。しかし、そこですぐ希望通りに薬をやめられたわけではなく、「1年間は検査や治療を続けて様子をみましょう」ということになりました。私も先生を信頼していましたので、指示通りに治療薬をきちんと飲み続けていました。それから約1年経過し、今年の3月にようやく「お薬をやめてみましょうか」と言われました。薬をやめた後に手足や節々が痛くなる可能性があること、また、毎月検査を続けること、数値が上がったらすぐに薬を飲むこと、などを先生から何度も説明されました。今はそれを守って、毎月通院を続けていますし、残っている薬もいつでも飲めるようにしてあります。
薬を飲まなくなってから、先生から説明を受けていた通り、時々足の親指のあたりが痛いことがありますが、それよりも、今は薬のことを気にせずに生活することができ、行動の自由度が上がってとても快適です。定期的に検査は続きますし、この先どうなるのかまだわかりませんが、薬から解放されたことに喜びを感じています。そして、生活のすべてである音楽を続けていきたいと思っています。

CMLランナーズ 私の一足

40年前に「呼ばれて」買ったステージ用ハイヒール

40年前に「呼ばれて」買ったステージ用ハイヒール

このハイヒールは、刺繍などの仕事が丁寧で、いいなと思って40年前に購入しました。フラッと入ったお店で目が合った、という感じですね。この靴に出会うために今日は南青山に来た、というような気分で買いました。
紫に合う目の覚めるようなグリーンのマーメイドのドレスや、黒のドレスに合わせてステージで履いていました。きれいに保管できていますが、40年経っていますから少し弱っています(笑)。このハイヒールは、私が選んで、私が決めた、私の「宝物」なのです。