みんなの体験記CMLランナーズ

シシィ さん(愛称)

シシィ さん(愛称) (40代)

CML発症後年数約3年半

3児の母。毎年誕生月に受けていた健康診断がきっかけでCMLと判明。告知を受けたのは折しも2012年6月、誕生日のことだった――。一時は、分子標的治療薬が効きづらいと言われる遺伝子変異が見つかるなど騒然とした時期もあったが、その後PCR法で感度以下を達成。子育てに追われながらCML患者の会の運営に携わるなど、活発に活動している。

取材者より

分子標的治療薬による治療を開始して4年目。3人のお子さんのお母様で、子育てに学校の役員にと病気とは思えないほどパワフルなシシィさん。「CMLという病気が世の中に理解してもらえるように」と、ブログなどを通じて思いを発信しています。それは娘さんに将来好きな人ができたときに相手に偏見をもたれないように…という優しい母親の気持ちからでした。海外旅行を積極的に楽しんだり、ガラス工芸に打ち込んだりと、日々の暮らしをいとおしみながら病気と向き合う姿がとても魅力的でした。

思いがけない誕生日プレゼント

毎年、誕生月の6月に健康診断を受けるのが私の習慣でした。2012年もいつもと同じように健康診断を受けたところ、白血球数が22,800/μlという検査結果だったのです。
「すぐ大学病院に行くように」と勧められました。しかし、私はまず近所の血液専門医のクリニックを受診しました。それまで大きな病気をしたこともなく、大学病院など行ったこともなかったからです。血液データに目を通された先生から、「おそらく慢性骨髄性白血病(CML)でしょう」と言われました。折しもその日は私の誕生日。最悪の誕生日プレゼントになってしまいました。熱もないし、どこかが痛むわけでもない。まったく症状がなかっただけに、わけがわからず、まさに青天の霹靂へきれきでした。
クリニックの先生が週に2回兼務されている大学病院への紹介状を書いてくださり、胸骨から骨髄穿刺をして調べた結果、正式にCMLの診断が下りました。
主治医の先生の口から出た「白血病」という病名にとにかくショックを受け、言葉もありませんでした。実は、急性白血病で亡くなったある女優さんと出身、高校が同じで、彼女の恩師だった教師から当時の話を聞かされていたため、「なぜ私があの白血病に…」とただ驚くばかりだったのです。
そんな私に、主治医の先生がかけた言葉は意外なものでした。
「あなたの白血病はきちんと薬を飲めば効果が期待できる病気です。大丈夫です、しっかり服薬治療しましょう。」
先生に言われたこの言葉にどれほど安心したことか。張りつめていた全身の気が抜けていくようでした。

まず頭に浮かんだのは3人の子供たちのこと

誕生日プレゼントのブレスレット 娘さんが紙粘土で作った
誕生日プレゼントのブレスレット

クリニックで診断を受けた日、家に帰ると5歳の末娘が誕生日プレゼントをくれました。幼稚園で先生と一緒に作ったという、かわいらしい紙粘土のブレスレットです。
「ありがとう」
受け取ったものの、どうしても娘の目をまっすぐ見ることができませんでした。子供は3人おり、その当時長女が小学校5年生、長男が小学校3年生、次女が年長さんとまだ幼く、子供の将来を考えると不安で胸がつまりました
――私がいなくなったら、この子たちはどうなるの…?
最初に思い浮かんだのが、子供たち3人の写真の整理と、一人一人の思い出の品や大事なものを引き出しにそれぞれまとめることでした。
「万が一私に何かあったとしても、困らないように。」
そんな思いを込め、へその緒や母子手帳、パスポートなどを一ヵ所にまとめました。
病気のことは、まず主人と両親に率直に話しました。子供たちにもすぐに話しましたが、どんな病気かまでは伝えられませんでした。「お母さん、病気になったの。」とさらりと言うと、当時小学校5年生だった長女が「もしかして白血病?」と言い出したのには驚きました。ちょうど学校で白血病の女の子が出てくるお話を読んだばかりだったらしいのです。
「死なないでね、お母さん。絶対に死なないでね。」
子供ながらに「白血病=死」をイメージしていたのでしょう
しばらくしてから子供たちにも病名を言いましたが、今では「薬飲んだ?」と気にしてくれています。

悩みは“食事のタイミング”

クリニックで告知されてから5日後には分子標的治療薬による治療がスタートしました。副作用については、いわゆる「抗がん剤」のイメージを抱いていて、「髪が抜けてしまうのかな」などと心配していました。見た目が変わってしまうことが怖くて、薬を飲み始める前に子供たちと写真を撮りました
身構えていたものの、実際に服用を開始してみると副作用らしき症状はほとんど起こりませんでした。その後、薬を増量した際には、慣れるまでの半年くらい気だるさのような症状が続きましたが、現在に至るまで同じ薬をずっと飲み続けながら、以前と変わらない毎日を送ることができています。娘の幼稚園の送り迎えもいつもどおり続けていました。片道1時間かけて電車通園していたのですが、骨髄穿刺をした翌日でさえ、傷口に絆創膏ばんそうこうを貼って電車に乗ったものです。
困ったことといえば、食事のタイミングくらいです。私は朝晩6時に薬を飲むのですが、服薬前後は食事ができないことから、家族そろって食事ができません。子供たちの夕食は6時半ごろなので、みんなが食べ終えたころ、食事をスタートしています。

突然起きた遺伝子変異

治療の効果が現れ始め、治療開始から8ヵ月後の検査では白血病細胞の数を示す検査の値は順調な減少を示していました。ところが安心もつかの間。その値は少しずつ上昇し始め、治療開始から16ヵ月後には正常値とは言えない値を示したのです。これには主治医の先生も心配している様子でした。
不安はあったものの、かねてから計画していた、ドバイ経由で片道20時間というとてもハードな旅を翌月に決行してしまいました。大好きな海外旅行でリフレッシュできたことが功を奏したのか、帰国して検査してみると、結果はなぜか正常値に戻っていました。
しかし主治医の先生は「この変動はおかしい」とにらみ、すぐに遺伝子変異の検査をしたところ、T315Iという遺伝子変異が見つかりました。この遺伝子の変異が起こると、現在の分子標的治療薬では効果が得られないらしいのです。
その検査結果を見た先生から発せられた質問は、「ご兄弟はいますか?」でした。
骨髄移植――。ちょうど長女の小学校卒業式のタイミングでした。
「まるでドラマのワンシーンみたい。」
その瞬間は我が身に起きたこととは思えませんでした
しかしそうも言っていられず、移植の準備にさっそく取り掛かりました。臍帯血さいたいけつ移植の話が進んでいたのですが、私自身がなかなか移植に踏み切れず、不安にかられる毎日がしばらく続きました。
そんな不安なときも、家の中が暗くならずに済んだのは、いつもと変わらず明るくいてくれる長女のおかげでした。とてもおしゃべりな子で心配なところもあるのですが、当時はすごく助かりましたね。
一時は、アメリカへ渡り新薬の治験に参加したいと望んだ時期もあったのですが、新しい主治医に変わるタイミングで再度遺伝子変異の検査を行ったところ、なぜか「T315Iは検出されず」という結果が出たのです。先生も不思議がり、何度も検査しましたが結果は同じ。すると、なかなか下がらなかった白血病細胞数も再び減少に転じ、今ではPCR法で感度以下。結局、移植も治験も必要なくなってしまいました。

充実した慌ただしい毎日

治療開始後も外見に変化もなく、何より元気に毎日を送れていることもあって、周囲は私に対してごく自然に接してくれました。親しいママ友に病気のことを話したのですが、みんな変に気を遣うこともなく遊びに誘ってくれます。
学校の役員の仕事もお声がかかります。子供が3人もいると、それだけでベテランママと思われてしまうのでしょう。主治医の先生からは、「1年という任期を果たすのは大変だから受けては駄目だよ。」と言われたのですが、やはり期待に応えなくてはと思い引き受けました。学校行事のたびに手伝うことが多く大変ですが、なんとかこなしています。
病気を理由に引きこもる間もなく、家事に学校行事にと、睡眠時間が足りないほど充実した慌ただしい毎日を送っています
告知されて間もないころは、まだCMLだと伝えていないママ友たちとランチに行くたび、少し落ち込んだりしていたこともありました。ママ友たちが集まると、「将来、うちの子をこんなふうに育てたい」などと夢を語るのですが、「私にはその将来があるかわからない…」などと卑屈に考えてしまって…。しかし、薬を飲みながらの生活も安定してきて、調子も良く、見た目も元気なので、病気のことを話し始めるようになってからは、気が晴れ晴れとしています。私自身の将来が漠然と見えるようになってきたからでしょうか。「20年後も、30年後も元気だろうな。CMLでは死なないかも(笑)」と思うようになったのです。病気が安定しているおかげですね。

CML患者の輪を広げたい

やはり友人の存在は大きいです。CMLになってからSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)とブログを始めたのですが、そこでつながっている患者仲間にはとても助けられています。ブログに「遺伝子変異が陽性だった」と書き込むと、親身になってさまざまな情報を提供してくれたり、食事に誘ってくれて一緒に涙を流してくれたり…。仲間の存在がこれほどありがたいと感じたことはありません。患者仲間は心の支えです。とても良い仲間たちに囲まれて、これに関しては病気になったことは決して悪いことではないと思うほど。
2015年の1月から患者会の運営に関わらせていただいていますが、インターネットを通じて日本各地のCML患者さんと知り合いになることができたので、今度は海外にその輪を広げたいという思いがあります。
「CMLは、今は薬でコントロールすることができる病気で、死に至る病気ではないし、遺伝する病気でもない。」ということが世界の共通認識になるようにという願いからです。
CMLという病気が世の中に理解してもらえるように――。それは、いつの日か娘に好きな人ができたとき、相手に「母親がCML」と紹介しても偏見をもたれないために…という想いでもあります。

人生には限りがある――。だから、後悔しないように

グラスリッツェン 繊細な技術が光るグラスリッツェン

CML発症前から、趣味でグラスリッツェンというガラス工芸を続けています。「リッツェン」はドイツ語で「削る」という意味。極細のペン先にダイヤモンドの粉を付け、ガラス表面を削る繊細な工芸です。さまざまなモチーフをもとに絵を描けるのが魅力です。グラスリッツェンの本家本元といえるスイスのメグロ-派という流派を学んでいます。機械彫りが多いなか、あくまで手彫りにこだわり、微細な濃淡や繊細さを表現する作風が特徴です。作業していると目が疲れてしまうのですが、楽しくてやめられません。いずれ教える側になれたらいいなと夢見ています
CMLになる半年ほど前にジョギングを始めました。長女が陸上部で中距離走をしているのを見ていて、「私も走りたい」と思ったことがきっかけです。末の娘を幼稚園に送り届けた後、幼稚園のママ友たちと一緒に走るようになりました。少しずつ走る距離を伸ばしていき、ようやく5kmほど走れるようになったところで、CMLと診断されたのです。
それで一度走ることをやめたのですが、副作用も特になかったので、主治医の先生から「無理のない範囲なら」と言っていただいたので、また走り始めました。
ところが10km走れるようになったころ、今度はT315Iの遺伝子変異が見つかってしまい、それからはジョギングを控えています。最近では、ジョギングを諦めた代わりにマラソン大会にボランティアとして参加し、陰でランナーを支えています。全く運動しなくなったわけではなく、体調管理のため月に2~3回プールで泳いだり、水の中で歩いたりしています。
そのほかに気分転換のために行っているのは、車の運転中に音楽をかけて大きな声で歌うこと。本当は海沿いをドライブしたいのですが、普段は近所を運転しています。車の中で一人で過ごすことも多く、駐車場に車を停めて、シートに座ったまま考えごとをしたり、昼寝したりすることもあります。
たまに嫌なことがあると車で出かけたり、家族や友人を誘って海外旅行に行ったり、バランスよく息抜きしながら生活をしています。
移植の話が出たときに身をもって感じたことは、「人生には限りがある」ということ。それ以来、後悔しないように、やりたいときにやりたいことをやろう、と思って生きています。家族や友人とともに、一日一日を大切に暮らしていきたいですね。

CMLランナーズ 私の一足

靴は私のメモリーカード

たくさんの海外旅行をともにしたお気に入りのサンダル

たくさんの海外旅行を
ともにした
お気に入りのサンダル

私はこれまで75回、CMLになってからもすでに4回海外に行くくらい海外旅行が大好きで、友人や家族を誘っては世界中を旅しています。もちろんCMLになってからは、主治医の先生に了承を得てからですが。この靴は、病気が発覚してまもない2012年8月に、以前から予定していたチェンマイ(タイ北部の都市)へ旅行したときに履いていたサンダルです。CMLになってから初めての旅行で、スーツケースに薬をいっぱい詰め込み、不安な気持ちのまま出かけた旅でしたが、素晴らしい出会いに恵まれました。HIVに母子感染した子供たちのいる孤児院施設を見学させていただいたのですが、施設の方から「この子たちは一生薬を飲み続けなければならないけれど、飲み続けていればHIVを発症しない」という話を聞きました。しかも朝と夜それぞれ6時に薬を飲むというではありませんか。「私と同じ…!」と服薬時間が共通していることで親近感をもったのを覚えています。そこで暮らす子供たちは病気にもかかわらず勉強にも遊びにも熱心で、みんな目がキラキラ輝いていたことが印象的でした。
このサンダルは、フィット感がよく靴底がゴムなので、飛び跳ねるように歩けるところが気に入っています。とても歩きやすいので、この靴で何度も旅行に出かけていますし、日常でも愛用しています。通販サイトでお手頃価格だったので、娘にも購入して色違いで数種類持っています。
靴は、私にとって子供の成長や旅の思い出を記憶してくれる“メモリーカード”のようなもの。これからもこの靴を履いて、いろいろな国に出かけたいですね。実はもう次の旅行を計画中です(笑)。