みんなの体験記CMLランナーズ

Satoko さん

Satoko さん (40代)

CML発症後年数約8年

35歳の時、子宮頸がんとともにCMLを告知され、分子標的治療薬で治療を開始。2年目にして分子遺伝学的完全寛解(CMR)を達成。
病気をきっかけにシンガーソングライターとして音楽活動を開始。闘病のかたわら、全国でライブを行なってきた。今年4月から移動式コンサートカフェ空間「カフェ フェリシダージ」を設立。全国の神社、レストラン、カフェなどでコンサートやトークイベントを中心とした集いの場を開いている。

取材者より

南国の花のような笑顔が印象的なSatokoさん。音楽を通じて同じような体験を持つ方々に出会い、支え合いたいと熱く語ってくださいました。驚くのはそのフットワーク。闘病のかたわら、ギターケース片手に全国のあらゆる土地を旅しておられます。
「同じく白血病のホセ・カレーラスさんや渡辺謙さんと会って話をしてみたい」「ブラジルに遊学してボサノヴァ音楽を学びたい」「映画音楽を作ってみたい」などなど、ほかにも夢がたくさん。聞き手の心まで温まってくるほど、ひたむきなエネルギーを湛えた女性でした。

最初に発見されたのは「子宮頸がん」だった

大好きな宮古島 大好きな宮古島

CMLを発症するまでは、入院や手術の経験もなく、まったくの病気知らずでした。
ふとした時に熱っぽさを感じるようになったのは、2005年4月頃でしょうか。風邪をひいてるわけでもないのに、なんとなく気だるいのです。いつもなら元気よく歩いていく場所へも、ついタクシーで楽して行きたくなる感じ。「春だし、怠け病にかかっているのかな」くらいに思っていました。
それだけに、その直後の自治体の検診結果を見た時はギクッとしました。子宮の検査項目に「要精密検査」と書かれていたのです。真っ先に頭をよぎったのは「これで大好きな宮古島へ行けなくなってしまう」ということでした。
宮古島は、検診結果が出るちょっと前に友人と旅した地です。透き通った海。ここちよい風。温かな人情―― すべてが感動的でした。なんとしても再訪したいと、現地のリゾートホテルと交渉し、ピアノ演奏の仕事を取り付けていました。音楽系専門学校の講師を長く務めていた私ですが、ピアニストとしても活動していたのです。
結局、旅行は泣く泣く断念。近隣の総合病院で精密検査を受けました。その結果、子宮頸がんと診断されました。さらに、手術のために行なった血液検査からCML(慢性骨髄性白血病)の疑いがあることも判明したのです。大学病院で骨髄検査を受け、正式にCMLを告知されたのは6月末のことでした。子宮頸がんだけでなくCMLまで―― あのときの絶望感は忘れられません
35歳。いろいろな夢を抱いていました。子どもを持つこともそのひとつでした。でも、CMLの治療中は妊娠を避けなければなりません。人生の選択肢を自由に選べると思っていた私。でも、これからはそうじゃないんだ……。白血球数が増加していく現実に、頭の中はパニック状態でした。

自力で克服したいから

そんな状態でスタートした闘病生活。幸い、子宮頸がんは円錐切除術というレーザー手術が成功し、克服することができました。CMLの方は、先生から勧められた分子標的治療薬を服用することになりました。
つらかったのは食後の吐き気。吐き気を緩和するための薬も処方していただきましたが、あえて服用しませんでした。自力で克服したかったからです。服用する時間帯を変えるなどあれこれチャレンジし、結局、朝食後に落ち着きました。でも、食後はしばらく起き上がれず、ひたすら天井を見つめていましたっけ。
ひとつわかったことは、「しっかり食事をとると症状が和らぐ」ということ。あくまで自分の場合、ですが。とくに炭水化物を多めに食べると効果がありました。内心、嫌だったのですけどね。できれば朝は野菜ドリンクなどで軽く済ませ、健康的にダイエットしたかった。しかも食後、すぐ横になるなんて―― !「このままじゃ牛になっちゃう」と嘆いたら、夫は「すでに牛だからいい」なんて言っていましたけど(笑)。

イメージトレーニングを重ねて診療に臨む

受診前はよく不安な気持ちにかられました。病気は良くなっているのかしら、それとも悪くなっているのかしら――
もやもやした思いを克服すべく、診察待ちの間はよく散歩に出かけていました。街の賑わいや自然に触れることで、だんだん気持ちが晴れやかになっていきます。歩きながらイメージトレーニングもしました。「いい結果を聞いて、足取りも軽やかに帰っていく自分の姿」をなるべくリアルに想像するのです。
この試みはかなり効果的だったと思います。実際、イメージ通りの結果になりましたし、何より受診の心構えを作ることができました。「気持ちを落ち着けて先生に向き合う態勢を整えることで貴重な診察時間を生かしたい」、その一心でした。
そして、いざ自分の診察の番が回ってくると、薬の服用の仕方や副作用などについて、こちらから積極的に質問していました。よく質問していたのが、「妊娠してもいいですか?」。
どうしても妊娠したい、というわけではありませんでしたが、同じ質問を繰り返すことで状況の変化を探ろうとしたのです。当初は「ダメだ」の一言だったのですが、そのうち「米国では休薬して妊娠する人もいる」などと説明してくださるようになりました。「CML治療の最前線はどんどん進化しているのだなあ」と感じました。
そんな私に対し、先生はいつも「音楽活動のほうはどうだい?」などと雑談を仕掛けてきます。のんびりした応対ぶりから、「ああ、自分は大丈夫なのかもしれない」と感じることができました。
その後、「大丈夫なのかもしれない」が確信に変わり始めたのは、発病したまさにその年の8月です。服薬治療を始めてなんと2か月目。白血球数は正常値の上限にまで下がっていました。苦手なはずの数字に救いを感じたのは、生まれて初めてのことでした

私の「心の薬」となった一冊の本

私の場合、食後の吐き気は、はっきりと自覚できるほどの症状ではなく、“なんとなく”気持ち悪い感じでした。このあやふやな不快感はいったいどこから来るのだろう?もしかしたら、薬が生まれた背景を知ることで解決できるのかもしれない、と考えました。そこで手に取ったのがこの本―― 「Magic Cancer Bullet 奇跡の抗がん剤の物語」(ダニエル・バセラ, ロバート・スレイター著 ; 木村正伸, 木村直子原訳)です。
実際、同書によって服用している薬が誕生するまでを理解することができました。周囲には「薬なんて飲まない方がいいのでは」と忠告する人もいて気持ちをかき乱されることもあったのですが、薬が生まれた背景を知ることで、不安が払しょくされました。まさに「心の薬」というべき一冊かもしれません。この薬に携わる医療関係者すべての人々に深い感謝の念を抱くようにもなりました
その後、服用している薬をこの世に生み出した米国の腫瘍学者、ブライアン・ドラッカー博士に会って、お礼を伝えたい、という思いが自分の中で膨れ上がっていきました。そこにたまたま飛び込んできたのが、来日されるというニュース。主治医の先生に頼み込んでお目にかかる機会をつくっていただきました。
当初はビジネスライクでクールな方を想像していたのですが、優しげなまなざしが印象的でした。「自分の研究に命を懸けている人なのだな」と感じずにはいられませんでした。博士に自分のCDを手渡し、私の命はあなたの発明によって救われました、と伝えると「研究者として嬉しく思います」とおっしゃってくださいました。その時、「これからはけっして薬を服用することに不安を抱くまい」と決意しました。

周りに恵まれた私はラッキー

最初に出したCDジャケットの装丁 最初に出したCDジャケットの装丁

闘病中は、家族や周囲の方々に助けられました。病気を知った義母が長崎から飛んできて「代われるものなら代わってあげたい」と言ってくれたときは、思わず涙がでました。
宮古島を一緒に旅した親友の存在も大きかった。つらいとき、不安なとき、電話やメールで幾度、彼女と語り合ったことか。二人で泣いたり笑ったりするうち、いつしか恐怖や不安を忘れることができました。じつはシンガーソングライターとしてライブ活動を始めた背景には、彼女の生き方が大きく影響しています。会社員として働きながら、画家をめざし自分のギャラリーを持とうと頑張っていた彼女。私の音楽の一番のファンでもありました。最初に出したCDジャケットの装丁も、彼女のイラストです。
私のライブに来てくださる大勢の方々にも励まされました。「母親が同じ病気だったから、あなたを見ると涙が出る。絶対、大丈夫だからね。」と励ましてくださる方。演奏が終わった後、泣きながら握手してくださる方。見ず知らずの人びとがこんなに自分を応援してくださるなんて――ライブという出会いの場を持てた私はラッキーだなと、つくづく思います。

シンガーソングライターとしてできること

マイ・ギター 欠かすことのできないマイ・ギター

本格的に音楽活動を始めたのは、CMLを発症した2005年6月。初めて骨髄穿刺したその日、大きなギターケースとスーツケースを手に大阪に向かい、ライブに参加しました。「モニュメントを遺したい」という思いが漠然とあったように思います。それまで仕事として音楽に携わっていたのですが、病気を告知されて、初めて自分のために作詞作曲するようになりました。もっとも、ピアノに向かっても泣き崩れてしまい、なかなか最後まで歌えなかったのですが。
この病気になってからは、やりたいことを思いついては企画書を書きまくっていました。同じく白血病を経験された渡辺謙さん、国際白血病財団を設立したオペラ歌手、ホセ・カレーラスさんに会いたい、とか。大それた夢ばかりでした。
しかし、あるときから、自分のための音楽活動が「みんなのための音楽活動」に変わっていったことを覚えています。「自分の音楽で橋渡しができないだろうか?」「不安を乗り越える手伝いができないだろうか―― ?」。
歌手の本田美奈子さんが白血病で亡くなったのは2005年11月のこと。彼女が登場する、骨髄バンクドナー登録の公共広告を見るたびに、目標をもらったような気がしていました。彼女の遺志を受け継ぎたいという強い思いが湧いてきたのです。週1回のペースでライブ活動を行うようになったのは、こうしたいきさつがあってのことでした。
それから、今、もうひとつの夢に挑戦しているところです。いつか、「自分の音楽をジブリの短編映画で使ってもらう」という夢―― そうすれば、きっともっと多くのがん患者さんやその家族を励ますことができる、と思うのです。

移動式コンサートカフェ空間を作ろう!

ライブでのワンショット ライブでのワンショット

分子遺伝学的完全寛解に達したのは、今から7年前のことです。さらに2011年には休薬状態になりました。もっと長い歳月がかかると思っていましたので本当に信じられない気持でした。けれど、心の内にはすっきりとしないものもありました。数値が正常値になったとしても、それで本当の意味での“治癒”に至ったと言えるのか――がんによって傷つくのは身体だけではありません自分や周りの人の心が癒えるまでは長い時間がかかるはずです
「じつは俺も死のうと思ってた」。今年の夏、夫がふと漏らした言葉です。ライブが終わり、バンドのプロデューサーと3人で飲んでいたときでした。過去形のその言葉を聞いて「やっと区切りがついたのだ」と感じました。夫も悩み、苦しんでいたのです。思えば長い歳月でした。

がんなどの病気や障害を持つ方々、周りの方々を支えたい―― 2013年4月に設立した「カフェ フェリシダージ」は、全国どこへでも出かけていく移動式コンサートカフェ空間です。病気を抱えている方は孤独感に陥りがち。話し相手もなく、ひとり悩んでいる人は地方にも大勢おられます。レストラン、カフェ、病院、公共施設、ホール、寺院―― 場所は問いません。毎回、ゲストのスペシャルトークと、私のミニライブを開催。その後、みんなでお茶を飲みながらゆったり語り合います。
「フェリシダージ」とは、ポルトガル語で「幸せ」という意味ですが、「カフェ」には茶の湯の精神をこめたつもりです。立派な器がなくても、たとえ茶葉すらなかったとしても、お湯一杯でよいから相手をもてなし、心を温め、落ち着かせてあげる―― この精神こそ茶の湯の心なのだと、茶道の先生に教わりました。
目指したのは、音楽やイベントを楽しめるだけの場ではありません。誰でも気軽に参加でき、直接つながりあえる。自分や周りの人ががんを経験していても、ありのままの自分を素直に語り、分かち合える。お互いに励まし合えば、日常の小さな幸せに気付いたり、やりたかったことを実現するきっかけがつかめるかもしれません。
仕事の都合上などさまざまな理由から、CMLであることを周囲に言えない方も大勢います。見た目からはわからないので、当然ながら電車などで具合が悪くなっても助けを請えない、というつらさもあります。妊婦さんが付けているような患者用のバッジでもあればいいのですが……。
CMLを発症し、現在は薬を服用することなく寛解を維持できているこの経験を貴重なものと受け止め、ふさわしい生き方をしたい。自分の役目を全うしたい―― 今はそんな思いでいっぱいです

CMLランナーズ 私の一足

「Stop!」と「Go!」を意味する「赤い」シューズ

愛用のウォーキングシューズ

愛用の
ウォーキングシューズ

悩んだり落ち込んだりしたときは、ウォーキングすることにしています。目標は1日3万歩です。よく歩くのは近所の大きな公園。樹々の緑に包まれていると、嫌なことも忘れてしまいますね。
このウォーキングシューズは5年前に買いました。ドイツのchung shi®(チャンシー)というブランドのもの。新宿の高層ビルにある専門店まで、わざわざ買いに行ったのです。ヒール部分がわずかに浮いており、足に余計な負担がかかりにくいのが気に入っています。
私はオーラソーマという色彩療法に詳しいのですが、「赤」には「Stop!」と「Go!」、両方の意味があります。5年前といえば、分子遺伝学的完全寛解に至った時期。古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分に生まれ変わろうとしていたのかもしれませんね。