みんなの体験記CMLランナーズ

鈴木 健吾 さん

鈴木 健吾 さん (31歳)

CML発症後年数約3年

28歳の時にCMLと診断されて分子標的治療薬で治療を開始 し、約3年かけて分子遺伝学的完全寛解(CMR)を達成。
医師の仕事のかたわら、病気を持った医師のコミュニティをつくり、活動の一つとしてメンバーの病気の体験談をまとめ、「病気を持ったお医者さん」の目線から情報を発信している。

取材者より

鈴木さんは、とても気さくな明るい方でした。
プライベートではCMLを発症する前から、見聞を広め、刺激を受けるために病院外の様々な職業の人達と会う場に積極的に参加するように心がけ、CML発症後も継続しているそうです。そうして知り合ったある社長さんに、「あなたは長生きしそうな気がする」と言われたことが、心の支えになっていると話されました。
自分が病気になった経験を社会に還元したい、という思いで「病気を持ったお医者さん」のコミュニティを立ち上げて活動するなど、人とのつながりを大切にしたい、という思いを強く持って行動されていることが印象的でした。

「俺もここまでか」、ドラマ「白い巨塔」で聞いたセリフが頭の中に浮かんだ

私がCMLと診断されたのは2009年10月、28歳の時でした。私は麻酔科医として病院に勤務しており、院内で定期的に受けている健康診断で白血球数が異常に多かったことが、CMLと診断されたきっかけです。健康診断を受けたその日に職場へ電話があり、「今すぐに血液内科を受診して下さい、白血球数が15万/μLあるんです」と言われました。
「15万」と聞いて、なまじ勉強しているものですから、すぐに「それは白血病じゃない?」「何の白血病か? 急性か? 慢性か?」と考えました。そして、「これはちょっと、命、ないなぁ」と、その時点で覚悟しました。不思議と動揺はしませんでした。その時に頭の中に浮かんだのが、ドラマ「白い巨塔」で、財前先生が自分が胃がんであることを悟ったシーン。「俺もここまでか」というセリフが思い出されました。
再検査を受けた結果、白血球分画の状態から、血液内科の医師に「たぶん慢性(CML)でしょう」と言われました。
ただ、当時私はCMLについて、医師国家試験の受験で覚えた「急性転化したら死亡率は100%」、「慢性にしても急性にしても、白血病の5年生存率はすごく悪い」といった、少し古い知識を記憶していただけだったので、「CMLかもしれない」と言われても、「どっちに転んでも白血病なら良くないよね」というふうに受け止めました。「分子標的治療薬が効けば生存率はかなり高い」という話を少し聞いたことはあったものの、当時の私には、それ以上に「予後が悪い疾患だ」という印象のほうが強く残っていたのです。
その後、CMLに関連した文献などを読み、「CMLの予後はかなり良い」ということを理解してからは、「もし本当に慢性だったら、大丈夫かもしれない、生きられるかもしれない」と、少し安心しました。その一方で、まだその時はCMLだと確定してはいなかったので、「もしCMLじゃなかったら?」「分子標的治療薬が効かなかったら?」とも考えて、「もしかしたら、あと半年しか生きられないかもしれない」という覚悟もしていました。

もし余生半年なら、人のために最後の時間を使うことがベストだと思った

血液内科での再検査後、職場に戻って同僚に「CMLかもしれない」という話をしました。みんなは「もう帰りなよ」と言ってくれましたが、「体調が悪いわけでもないし、すぐ倒れそうな感じもしないし、余生半年かもしれないけれど楽しむ気分でもないし…」と、検査結果が出るまでは普通に勤務を続けることにしました。
検査結果が出るまでの約2週間は、自分の生き方について真剣に考えました。なまじ元気で症状も出ていませんでしたから、最初は、余生半年かもしれないのなら「今まで行きたくても行けなかった海外旅行に行こうか」とか「海に行ってみようか」、「山登りをしてみようか」と思いました。でも、ちょっと想像してみたら「自分一人で行くのって、なんか孤独だよね」と感じられて…(笑)。もし半年後、ベッド上で動けなくなった時に今を振り返ってみて、満足できるかといえば、「海へ行っても満足はできないだろう」と、直感的に思いました。
じゃあ、自分はどうすることで死ぬ時に「満足だ」と思えるか、と考えてみると、私はその時、「人のために最後の時間を使うことが、一番の思い出になるんじゃないか」と思ったのです。そうすることで、自分が生きた証を誰かに伝えられるのではないか、とも思いました。
私は麻酔科医なので、普段の仕事は手術に関わることが多いのですが、患者さんにとって「手術を受ける」というのは、きっと人生の一大イベントでしょう。そこに、自分という医師、人間が立ち会って精一杯のことをする。手術の時、麻酔科医は直接、切ったり、縫ったりするわけではないので、そういう意味では、縁の下の力持ちなのですが、それでも手術の後、一人でも患者さんの中で「あの時、麻酔科の先生があんなことをしてくれた、言ってくれた」と記憶が残り、時々思い出してもらえたらいい、そういうふうに誰かの中で生き続けられたら、それが自分にとっての幸せなのかもしれない、と考えたのです。「だったら仕事を休むのではなく、むしろずっと続けよう」、「それが自分にとってベストだし、一番楽しいことなんじゃないか」と、確定診断までの約2週間は、そんなことを考え続けました。
その後、CMLであると確定診断された時は、ホッとしました。生きられそうだ、ということと同時に「まずは分子標的治療薬を飲めばいいのか。化学療法や造血幹細胞移植など、大変な治療を受けなくてもいいんだ」と分かったという点でも、ホッとしました。

体力が必要な仕事だが、CML発症後も継続

分子標的治療薬を服用し始めて、治療効果はほぼ順調に得られました。ただ、なかなか分子遺伝学的完全寛解(CMR)を達成できず、昨年薬を変更し、先日やっと達成することができました。現在は今の効果を維持して、休薬試験に参加することを目指しています。
分子標的治療薬を飲み始めた当初は、疲れやすさ、下痢、吐き気といった副作用を経験しました。主治医は「自分の体が許す範囲で、何でもしてもいいよ」と言ってくださったので、長時間の麻酔なども含め、仕事はCML発症前と変わらず続けています。体力が必要な仕事なので、疲れやすさを少しでも軽減するために、夜更かしをしない、バランスの良い食事を摂るなど、体調管理にとても気を使うようになりました。
CMLになってからの体調変化といえば、非常に寒がりになりました。あまり本や教科書には書かれていませんが、「寒がりになった」というCML患者さんは、割といらっしゃるんです。私の場合、体を温めるために運動などを試行錯誤した結果、温かいお風呂と水風呂に交互に入るのが一番効いて、保温効果が持続することが分かりました。それで、今は週2回ほど、スポーツジムの大きなお風呂でこの入浴法を実践しています。

自分と社会のために、「病気を持ったお医者さん」コミュニティを立ち上げ

命が助かった次の段階として、「今は元気だがいつ再発するか分からない。その時に起こる様々な問題に対してどうしたらいいか、情報を共有できるコミュニティがあるといいのではないか」、と考えるようになりました。というのも、私がCMLを発症したのは28歳と若かったため、周りの友人にはがん患者はおろか、病気を持っている人もほとんどおらず、「誰にも相談できない、共感し合える人もいない」ということの不自由さを強く感じたのです
時代の流れを見ても、FacebookやTwitterなどを介してできたコミュニティが、社会に影響を与えるようになっています。それで、何か病気の人のコミュニティをつくることで、自分達のセーフティーネットになるだけではなく、社会の人にとっても大きなメリットになるんじゃないか、という思いから、病気を持っている医師を口コミで20人くらい集めてコミュニティをつくりました
コミュニティの活動の一環として、メンバーの病気の体験談を私がまとめて、ブログに記録しています(「病気を持ったお医者さん」)。メンバーが持っている病気は、CMLのほか、甲状腺の腫瘍やアレルギー、先天性の脊椎疾患など様々ですが、「患者であり医師でもある」という人間の視点と、一般の患者さんの視点とは違う部分があると思うので、それを患者さんが見て何かヒントを得ることがあるかもしれない、と期待しています。

将来の夢は、ペインクリニック開業

「病気を持ったお医者さん」になったことで、患者さんの気持ちも分かるようになったと思います。日本の医療全体の問題として、患者数が多いため、医師には一人一人をきちんと診ることと併せて効率よく診療を進めることも求められ、そのため患者さんにとっては「ベルトコンベアに乗っているようだ」と感じられることがある、ということが以前から言われていました。実際、自分が患者として外来へ行った時、医師側にそんな意図はないのはわかっているのですが、「ちゃんと診てもらえているのか?」、「ベルトコンベアに乗っていないか?」と感じて不安になったりすることがあります。そのため、逆に自分が患者さんを診る時はそう感じさせないようにと、心がけるようになりました。
実は、私は高校3年の冬までなりたい職業がなくて、「それなら、人がしたいことをサポートする職業に就こう」と思って医師を目指したのですが、実際に医師になってみて、自分の関わった患者さんが元気になっていくのがうれしくて、今は「なってよかった」と思っています。
麻酔科を選んだのは、自分は痛みが苦手だから、患者さんのいろんな痛みを取ることができればうれしい、と考えたからです。手術する患者さんに麻酔をしたり、何らかの原因で生じている痛みを緩和したり、というのが主な仕事ですが、今は、痛みの原因を探り、様々な手段がある中から適切な方法で可能な限り痛みを止める、という仕事に非常に興味を持っていて、「身体的な痛みも精神的な痛みも取る。そして、患者さんに笑顔を与える」というのを自分のモットーとしています
将来は、自分が興味を持っている「身体的な痛みも精神的な痛みも取る」という仕事を追及して、ペインクリニックを開業したいと思っています。以前、知り合いから「未来の目標を達成するために、必要な行動を逆算して毎日書き込み日々振り返り、次の行動に落とし込むための日誌がある」ということを教えてもらってから、日誌をつけているのですが、「ペインクリニック開業」も未来の目標の一つとしてこの日誌に書いてあります。いつか必ず、この夢を実現したいと思っています。

CMLランナーズ 私の一足

「戦闘靴」と呼んでいるアルマーニ®の靴

「戦闘靴」と呼んでいるアルマーニ®の靴

この靴を履くと、
スイッチが入ります

この靴は、CMLを発症する数年前にふらっとアルマーニ®の店舗に入った時、「カジュアルにも正装にも使えそうだ」と、気に入って購入しました。高かったですが、「長持ちするよね、アルマーニ®だもんね」という感じで、奮発して買ったんです。当時は、遊びに行ったり、人と会ったりする時は、いつもこの靴を履いていました。要するに、これしかいい靴を持っていなかったのです(笑)。
私の職場は病院という閉鎖的な空間なので、外の世界が全く分からず「これはなんとかしなきゃ」と、勤務を始めてからずっと思っていました。それで、CMLを発症する半年くらい前から、意識して院外の人と積極的に会うようになったのですが、そうすると、徐々に目上の方と1対1で会う機会が増えていき、そのような時に気合を入れる意味でこの靴を履くようになりました。買った時は、全くそういうことを思って買ったわけではないのですが、いつの間にか「履くだけでスイッチが入る」、そうなってきました。そのため、いつしかこの靴は、自分の中で「戦闘靴」として位置づけられるように…。
この靴は、病気になる前の自分と、なった後の自分の両方を知っている靴でもあります。ずっと愛し続けてきた靴であり、思い出に残っている靴なんです。履き込んで、だいぶいいツヤも出てきました。「この靴を履いて、いろいろな人と会ってきたな」と思うと、やはり大事な人と会う時はこの靴を選んでしまいます。