みんなの体験記CMLランナーズ

村上 公一 さん

村上 公一 さん (41歳)

CML発症後年数約6年

2007年、36歳の時にCMLと診断されて分子標的治療薬で治療を開始したものの、血球数が減り過ぎて、重度の貧血に悩まされたが、現在、分子遺伝学的完全寛解(CMR)を達成している。

取材者より

村上さんは今回のインタビューで、「CMLになって良かった」という少し変わった(?)感想を、ユーモアたっぷりにお聞かせくださいました。
エピソードの端々に、お子様(2人の女の子)をとてもかわいがっている、仲の良い親子の様子がうかがわれ、また、「土曜日に仕事があると、子ども達からブーイングが出る」など、とても愛されているお父さんなんだろうな、ということも感じられました。
私にも娘がいることから、インタビューの最後には教育相談のような場面も…。村上さんいわく、「男親は娘に甘くなりがちだけれど、普段は甘くても、大きくなるまでに一度や二度は本気で怒ったところを見せておくことが大切(でなければナメられる)」とのことでした。

がんの疑いがあると知った時、「自分が取り乱してはいけない」と思った

僕がCMLだと診断されたのは2007年3月、36歳の時で、きっかけは会社の定期健診でした。健診を受けた病院から電話がかかってきて、「すぐに来て下さい」と言われたので行くと、検査の結果、白血球数と血小板数が異常に多かった、との話がありました。その時は、CMLではなく血小板増多症という比較的経過の良い病気が疑われていたようで、先生は「多分大丈夫だと思いますが、一応大きな病院で診てもらって下さい」と言われました。それで、自宅の近くの大学病院へ再検査を受けに行ったのです。
大学病院へ行く時に、不安は全くありませんでした。というのも、その前年の健診では胃のポリープ、前々年には不整脈を指摘されていて、それぞれ精密検査を受けたところ、大したことはなかったからです。だから、「今年も大丈夫だろう」という気持ちで心電図、レントゲン、エコー、骨髄検査を受けました。問診で「家族や親類に、がんにかかった方はいらっしゃいますか?」など、がんに関する質問をいろいろと受けて、「何でがんのことをこんなに聞かれるんだろう?」と疑問に思いましたが、健診先の先生から「多分大丈夫」と言われていたこともあって、まさか自分にがんの疑いがあるなど、考えもしませんでした
検査結果が出る日は仕事を休めなかったので、代わりに妻に病院へ行ってもらいました。仕事が終わって家へ帰ったのが夕方5時頃、それまで検査のことはすっかり忘れていて、ドアの前で思い出しました。ドアを開けたら子どもが二人、いつものようにテレビを楽しそうに見ていて、妻はキッチンで料理をしていました。それで、妻に「検査の結果、どうだった?」と聞いたのですが、なぜかこちらを向かず、何も言いません。
「あれ、聞こえなかったかな?」と思って側へ行き、「検査どうだった?」と、もう一度聞きながら顔を見ると、目に涙がたまっていました。「えっ、何?」と思っているとファイルを渡されて、見ると「白血病」という文字がドンと目に飛び込んできました。「えっ、これ?」と指差したら、妻がこくりとうなずいて…。
その時は、自分が取り乱してはいけないと思いました。衝撃は大きかったのですが、近くに子ども達がいたし、妻にも男として泣き崩れた姿は見せたくない、と思ったんです。だから、咄嗟に「大丈夫だよ。もしかしたら間違いかもしれないし」と話していました。実際、気持ちの半分くらいは「誤診だろう」と思っていました。白血病なんていう病気になれば、普 通は疲れやすいとかめまいがするとか、何か症状がありそうなものなのに、体調は絶好調でしたから。

「死ぬかもしれない」と思ったら、物事の見え方が変わった

その日から診断が確定するまでの1週間は、「死ぬのが怖い」という気持ちと「誤診だろう、大丈夫」という気持ちが交互に襲ってきました
夜間に仕事があり一人で車を運転している時などは、「死」というものが怖くてたまらず耐えられない気持ちになりましたが、少し日が出て明るくなってくると「大丈夫じゃないか」という気持ちになってくる。その繰り返しでした。インターネットでCMLのことを調べると、分子標的治療薬という新しい薬が効けば大丈夫らしい、ということが分かってきましたが、6年前はまだ、分子標的治療薬のことが書かれていないサイトもあって、「CMLは造血幹細胞移植でしか助からない」「急性転化したら余命は半年」といった、厳しい情報を見ては落ち込んでいました。どの情報が正しいのか、当時は判断ができなかったのです
それでも、妻の前では「死ぬかもしれない」という不安な気持ちや弱い部分は、絶対に見せられないと思って、冷静を装っていましたし、子ども達とも、いつも通りに接しようと頭では思っていました。でも、時々「ニコッ」と笑顔を見せられたりすると、「子どもの笑顔ってこんなにかわいかったんだ」と、それまで気にも留めなかったことが急に新鮮に感じられたり、「この笑顔をあと何回見られるのかな」と思うと涙が出てきてしまうこともありました。まだ幼かったので、僕が死んだらどうなってしまうのかと考えると、絶対に死ぬわけにはいかない、という気持ちになりました。
僕はそれまで、数えるほどしか泣いたことがなかったのですが、その週は何かあるたびにぽろぽろと涙がこぼれて、仕事から帰って家族の顔を見てはなぜか涙が…と、そんな感じでした。

治療開始後、血球数のコントロールに苦労した

1週間後、妻と一緒に病院へ行き、CMLの確定診断を受けました。分子標的治療薬が処方され、先生から、「今日から飲んで下さい。体に発疹がでたら、すぐにやめて下さい」という説明を受けたので、1日目の夜は緊張して飲みました。「自分はこの薬を飲める体なのか?」と不安だったのです。起きてからすぐに体中を点検したら、無事、発疹は出ていなかったので安心したのを覚えています。
しかし安心したのもつかの間、ほかの副作用に悩まされることになりました。血球数が標準値より下がり過ぎてしまったのです。血球数が下がってくると、体がだるく、辛くなるし、体の免疫機能が落ちるので、手洗い、うがいやマスク着用にすごく気を付けなければなりませんでした。一度風邪をひいたら1ヵ月は治らず、大変でした。先生の指示のもと、血球数が下がったら休薬して、戻ったら服薬再開、と、服薬と休薬を何度も繰り返しました。辛かったのですが、服薬する時は頑張って薬の量を減らさずに飲みました。
その甲斐あってか、1年かけて何とか細胞遺伝学的完全寛解(CCyR)を達成しました。でも、だるさに耐えられず先生と相談して少し薬を減らした結果、最終的に1年半以内に到達する目標だった分子遺伝学的効果(MMR)を達成することができなかったのです。
そのため、先生からは造血幹細胞移植を提案されたのですが、移植をするとその後社会復帰するのに1年以上もかかることがあるとか、死亡するリスクもあると聞いていたので、何とか薬での治療を引き延ばしたいと考えました。
通院のたびに先生から「移植の決意はできましたか?」と聞かれ、「いや…」と言い続けて3年くらい経った頃、先生から「ほかの分子標的治療薬の治験がありますが、やってみますか?」と勧められたので、喜んで参加することにしました。その結果、その薬は効いて目標としていた分子遺伝学的完全寛解(CMR)を達成することができたのです。

貧血が一番つらかった

最初の薬で治療している時に一番辛かったのは、貧血でした。ヘモグロビン値が6.0g/dLくらいまで下がり、かなり重度の貧血で歩くだけでも息切れし、家では何もできず横になっていることが多かったです
体は辛かったものの、仕事は続けました。電気工事士をしているのですが、仕事は夜間に多く、不定期なため、時には2日間寝ないでするような作業もあり、貧血がひどかった頃はすごく大変でした。でも、貧血のない時はほぼ普段どおりにできていたので、仕事を続けても支障はないと考えて、会社にはCMLになったことを伝えませんでした。
CMLになってから驚いたのが治療費でした。初回は1週間分だけ処方してもらったのですが、支払いの時に約3万円請求されたのです。「たった1週間分が、3割負担でこの値段?」と、びっくりしました。毎年100万円以上をずっと払い続けるのか、と考えるとお先真っ暗な感じがして、区役所に「何かいい方法はないでしょうか?」と電話したら、高額療養費制度を紹介され、その制度を利用したら何とか払っていける金額になりそうだったので、ほっとしました。

ずっと仲が悪かった姉だけれど…

僕には姉が一人いるのですが、最初の分子標的治療薬が効かなくて移植する可能性が出た時、先生から「念のためきょうだいのHLA型が合うかどうか、確認しておきましょう」という話があり、久しぶりに電話をすることになりました。
実は、姉とは学生の頃からすごく仲が悪くて、同じ都内に住んでいるのに連絡を取ることもなく、ずっと疎遠だったんです。そういう状態が十何年間と続いていたので、電話をしたらすごく驚いていました。
それまで、両親にもCMLになったことを話していなかったので、姉は僕の病気のことを知らず、その時に初めて伝えました。CMLという病気を説明するのは難しくて、普通の人は、「白血病」と聞いたら慢性も急性も関係なく「不治の病」だと思ってしまいます。だから、「僕がなったのは薬が効きやすくて、すごく危険性の低い白血病だけれど、もし万が一、薬が効かなかったら移植をする可能性もあるから」という感じで、慎重に話をしました。
そうしたら、2~3日後に姉が電話をかけてきて、「公一、ごめん」と言ったんです。「えっ、何がごめんなの?」と聞いたら、「今まで、何一つお姉さんらしいことをしてあげられなかった」と。ずっと仲が悪かったのに、「病気のことを聞いてから、おまえのことしか考えられなくなった」と言われました。弟なんて元気でいるのが当たり前で、気にも留めない存在だったのに、急に病気になってしまったことがすごくショックだったようです。
でも、そのことがきっかけで、それまでの関係が一変し、姉とは年に1~2回一緒に食事するような、仲の良いきょうだいになりました。HLA型は合わなかったのですが、自分のことを気にかけてくれる姉の存在が心強くて、「ああ、きょうだいっていいな」と実感しています
今、姉に言われていることは、両親に病気のことを話しなさい、ということです。僕としては、70歳を過ぎた両親に余計なことを言って心配させたくないし、白血病と言えば夏目雅子さん、というイメージしか持っていないであろう両親に、「CMLは危険性の低い白血病だ」と分かるように説明できるだろうか、と思って躊躇しているのですが、姉は「もし立場が逆だったらどうする?あなたの子どもが病気になって、何も話してくれなかったらどう?だまされた気分にならない?」と言うんです。話すのか、話さないのか、どちらが親孝行なんだろう、と思うと悩みます。話す方が親孝行なような気もするし…、でも、まだ話していません。

もしCMLが治って、また以前の自分に戻ってしまったら嫌だなと思う

自宅栽培 最初に育てたのはゴーヤでした

僕は、「CMLを治したい」という気持ちにはならないんです。病気になったことで、それまで当たり前だと思っていたことの中に幸せがたくさんあることに気付けたし、人の優しさを知ったり、いろんなことを考えるきっかけになったりしたのが、すごく良かったな、と思って…。もしCMLが治って、また以前のように、周りにある幸せに気付けない自分に戻ってしまったら嫌だな、という思いがあるんです。そんな風に考えるのは、僕くらいでしょうけれど(笑)。
子どもは今、14歳と10歳です。病気のことはもう話していて、そのきっかけは3年くらい前に長女が「パパ、これ何の薬?」と聞いてきたことでした。「パパは慢性骨髄性白血病という病気にかかっているんだよ。昔はこの病気にかかるとほとんどの人が死んでしまったけれど、パパはこの薬を飲んでいるからずっと生きていけるんだよ」と、話したんです。
その時は、二人とも分かったのか分からなかったのか、「ふーん」みたいな反応でした。その割に、ふとした時に「パパ、がんなんでしょ?」と聞いてくることがあって、ドキッとさせられます。「ああ、自分はがん患者なんだ」と…。自分でも普段は病気のことを忘れているんです(笑)。患者会のフォーラムで聞くお話などから「今の自分は急性転化するタイプじゃない」と確信しているので、「死んだらどうしよう」という不安が全くないからかもしれません。
CMLと診断されてからすぐ、自宅の庭で野菜を育てるようになりました。なぜか植物に興味がわいて…。最初に育てたのはゴーヤでした。朝、家から出かける時の大きさと、帰ってきた時の大きさが全然違うくらい、どんどん成長していくのがすごく面白くて、次の年はゴーヤとトマト、というふうに、徐々に種類を増やしていくうちにどんどんはまって、楽しくなってきました。休日は子ども達とホームセンターへ行って肥料を買ったり、雨水タンクを設置してみたり。そういう毎日が、幸せだなと思います。
いろいろ悩みがあっても、やはり生きていることが何よりだと思うんです。これからもずっとこの気持ちを忘れずにいたい、と思います。

CMLランナーズ 私の一足

誕生日ごとに妻が買ってくれるMERRELL®の靴

誕生日ごとに妻が買ってくれるMERRELL®の靴

1年間、
同じ靴を履き倒します!

11月の誕生日に妻からプレゼントされるのは、なぜか毎年靴なんです。
ある年、「電気工事で天井の点検口に入る時、紐靴だと紐がひっかかって身動きが取れなくなることがあるんだよね」と話していたら、このMERRELL®の靴を誕生日にプレゼントしてくれました。
「この靴、履きやすいし工事の邪魔にもならないし、すごくいい靴だね」と褒めたら、それからは毎年このシリーズをプレゼントしてくれるようになって(笑)、それがかれこれ5年くらい続いています。
僕は、買ってもらった靴はすぐに履かず、年が明けてからおろすことをルールにしているんです。そして、1年間同じ靴を履き続ける。前の年に履いた靴は、「まだ捨てないでね」と一応言うのですが、かなりくたびれてしまっているので、いつも妻に捨てられてしまいます。でも、僕は物を最後まで大切に使い切りたいタイプ。例えば、バイクのタイヤの溝が浅くなってきたら「こんなに減って、ずいぶん走ったな。」と達成感のようなものを感じて、なんだかうれしくなったり、靴も底の滑り止めが減ってきたのを見て「ああ、使い込んだなぁ。満足」と、そういうふうに思う質なんです。なので、もらった靴もいつか底に穴があくまで履くことが、僕の小さな夢です(笑)。