みんなの体験記CMLランナーズ

田村 英人 さん

田村 英人 さん (62歳)

CML発症後年数約9年

53歳の時にCMLと診断され、分子標的治療薬で治療を開始。「CML患者同士が顔を合わせて、話し合える場がほしい」と、2007年にCML患者さん・家族の会「いずみの会」を発足し、代表を務められている。ご趣味はサックスで、夢はストリートミュージシャン。

取材者より

お仕事の保険代理店業のかたわら、CML患者会の活動と、お住まいの近くの病院でがん患者さんの相談に乗るピアサポートもされていらっしゃる田村さんは、「患者さんの悩みに対して何ができる、というわけではないけれど、皆さん、心に寄り添ってほしいという思いは持っているはず」と話されていました。がんを経験された方だからこそ、そういった気持ちが分かり、患者さんと向き合えるのだろうな、と思いました。
いつも患者さんのお話を聞かれているためか、インタビュー中も取材者の言葉をもらさず聞き取り、拾って話しやすい雰囲気をつくってくださるような優しさを感じました。取材後に「記念撮影をしましょう」と言ってくださった患者さんは、初めてでした!

「自分の命はあと4年、どうやって死の準備をしようか」と考えた

支えてくれた妻とともに、長野にて 支えてくれた妻とともに、長野にて

私がCMLと診断されたのは2003年5月、53歳の時でした。
会社の健康診断で白血球数が多いことを指摘されて、大学病院でマルク(骨髄検査)を含む精密検査を受けました。白血球数が多いということで、初めは不安より「なんだろう?」という気持ちが強かったです。「何か感染症にかかったか。それとも多血症かな? 最悪は白血病? でもまさか」と落ち着かない気持ちで検査結果を待ちました。ゴールデンウィークを挟んだので結果が出るまでに約1ヵ月かかり、その間がとても長く感じられました。
検査結果は妻、息子と一緒に聞きに行きました。そしてCMLと診断されたのですが、その時のことを今振り返ってみると、どんなことを思ったのか、先生からどんなお話があったのか、家族がどんな反応をしたのか、ほとんど覚えていません
頭の中が真っ白になり、何から手をつけたらよいか分からない中、まずインターネットや医学書でCMLに関する情報を集めました。しかし、当時は分子標的治療薬が発売されてまだ1年とちょっとしか経っておらず、CMLは「発症後4~5年で急性転化して死に至る」という厳しい情報しか見当たりませんでした。そのため、診断直後の時期は「これからの4年間をどう過ごそうか。どうやって死の準備をしようか」という思いが強かったですね
そんな状況の中で、妻や息子は病院に同行してくれたり、遠い親戚の医師や近所で血液の病気をした人など、いろいろなルートから情報をかき集めたりしてくれました。この時の家族のサポートほどありがたく、心の支えになったものはありません。

「飲む抗がん剤なんて気休めじゃないか」と思ったが…

CMLと診断されてから、「造血幹細胞移植をする可能性もある」と考えて移植のできる病院へと移ったものの、年齢的なリスクを考慮してか、先生からは「最近、飲む治療薬が出たのでそちらを試しましょう」と言われました。製薬会社には申し訳ないけれど、「飲む抗がん剤? 本当に効くのだろうか。気休めじゃないかな?」と最初は思いました(笑)。抗がん剤といえば点滴で、吐き気や熱で七転八倒して苦しむものだ、というイメージを持っていたものですから…。
「分子標的治療薬」という目新しい言葉に半信半疑、それでも本心は「どうか効き目がありますように」と、神にもすがる思いで服薬を始めました。幸い、服薬を始めてから1ヵ月くらいで白血球数がぐっと下がったので、「4年で死に至ることはなさそうだ」と、少し光が見えてきたような気がしました。その後、経過は順調に推移して、現在も慢性期が維持されています。それでも未だに、「このまま一生維持できる」という確信は持てないですね。今は、あくまでも薬で病気の進行を抑えているだけ。「いつか薬に耐性ができて、白血病細胞が再び増えてくるかもしれない」という不安が、今もわずかにあります
私の場合は軽いほうだと思いますが、治療に伴って足のつり、顔のむくみ、結膜下出血、皮膚が白くなる、貧血や疲れやすさ(骨髄抑制)、そして、年のせいかもしれませんが白髪になる、といった副作用も経験しました。ある時は電車の中で片足がつり始め、もう一方の足で体重を支えていたらそちらもつってしまい、仕方がないからつり革にぶら下がって我慢したこともありました。
あと、この治療で驚いたのは費用です。最初に病院でもらった処方箋を薬局に持って行き、会計時に10万円を超える金額を言われた時には、計算を間違えているのではないかと思いました。そんなに大きな金額を用意していなかったので、その日は薬局に借金をして…。公的な制度として、支払額が一定額を超えた場合にその超えた金額を国から支給される「高額療養費制度」があり、CML患者は服薬を続ける限りこの制度にお世話になるのですが、それでも患者の経済的な負担は大きな問題だな、と感じています。

早期退職を決心、そして新しい仕事にチャレンジ

発症当時、私は情報システム関連の会社で、ソフト開発の仕事をしていました。CMLを発症するまでは、「60歳まで精一杯働いて、その後は生活を楽しむ」という人生設計を漠然と思い描いていましたが、病気になり、半日休暇制度を利用して通院しながら仕事を続けているうちに、「頑張って働いても定年まであと5~6年。その時に自分が果たしてどういう状態になっているのかは見当もつかない。それなら、大切な時間を家族ともっと過ごしたほうがいい」という思いが強くなりました。そこで、人生設計を描き替えて、55歳で早期退職することを決心しました
退職後、最初は「長い間働いてきたから、少し休養しよう」という思いがありましたが、家にいるだけでも光熱費など、お金が結構かかることが初めて分かりました。薬が効いて「あと4年の命ということは多分ないだろう」とも思い始めていたので、「妻のパートタイム勤務に頼り切ることはできないな」と、ある日新聞の広告で見つけた保険代理店の募集に応募して、仕事を始めました。それまでとは全く異なる仕事でしたが、会社勤めはもうやりたくない、という気持ちがありました。
「自由な時間でできます」という謳い文句に惹かれて始めたものの、実際は大変でした。個人代理店ですから最初から飛び込み営業で、教えられたとおりに「ピンポン」と戸別訪問しても、玄関先に出てきて話を聞いてくれる人はごくわずか。「ああ、もうやりたくないな。でも毎日回らないといけないし」と思いながら、1軒だけピンポンして「今日はこれで終わり」なんて言って自分で自分を納得させて帰ってきたりして…(笑)。毎日、行きたくなくて仕方がなかったのですが、ある日初めてお客さんが加入してくださった時、「ああ、自分でも顧客を取れるんだ」と、新たな発見のようなものがありました。
徐々に顧客が増えてくると、皆さんが自分を信頼してくださっていることを感じ、正義感に燃えてきました。保険を勉強していくと、中には「これが保険?」と思う商品もあることが分かってきました。そういう保険に入っている方に、「この保険はいい部分もありますが、実はこういう内容でもあるんですよ」ということをお話しすると、びっくりされる方が多いんです。皆さん、あまり保険の内容をご存知ないんですよね。「じゃあ、切りかえたいです」とおっしゃることもあって、「これも一つの社会貢献かな」と感じたりしています。最近はCML患者会の活動が忙しいため、保険の営業に割ける時間が少なくて両立に悩んでいますけれど…(苦笑)。
会社員時代は、まさか自分が営業をするとは思っていなかったし、できるとも思っていませんでした。「人には適性がある」と言われますが、「自分にこんなことができるわけない」と思うことでも、実はちゃんと素質を持っている場合もある。自分がそれを抑えてしまっているだけじゃないかな、という思いが最近はしています。

希少がんだからこそ、患者同士のつながりが必要

CML患者の社会生活においては、若い方ほど問題を抱え、大変な思いをされているのではないかと感じます。就職活動がうまくいかず、精神的に折れてしまって、次の行動を起こせない方がいらっしゃいます。小児のCML患者さんの場合は、親御さんが、告知の問題を含め「学校の先生にどう説明したらいいんだろう?」、「学校でどうやって薬を飲ませたらいいんだろう?」など、もっと深刻な悩みを抱えていらっしゃいます。
CMLは希少がんだからこそ、同じ立場の患者同士で情報を交換し、共感し、励まし合う場を持つことが特に重要なのではないか、と思っています。抱えている問題は、たとえ家族でも受け止められないことがあるし、家族だからこそ困難な面もあります。
私もCMLと診断されてから、「同じ病気の人と会いたい、話がしたい」と思うのになかなか出会えませんでした。それで、血液がんの支援団体であるNPO「つばさ」に「CMLの患者会を作ってほしい」と提案したところ、「ぜひあなたが」と背中を押され、CML患者・家族の会「いずみの会」を立ち上げました。
最初は「患者会って、何から始めればいいの?」という感じで、いろんな方に話を伺いながら、まず会則をつくり、2007年に初めて都内で患者交流会を開きました。その後、フォーラムや交流会など、患者さん同士が顔を合わせて話をする場の設定や、医師による新しい情報の勉強会を中心に活動を行ってきました。また、他のがんの支援団体と連携した活動、例えば高額療養費の負担軽減を求める活動なども行うようになり、意見交換を通じて多くのことを学びました。患者会とはいえ組織活動なので、会の軸をしっかり持つことが大事だと認識するようになりました。
苦労はありますが、患者さんから「このような会があって良かった」と言われると、報われる思いがします。交流会は、インターネット等の文字を介したコミュニケーションとは情報量が全然違うし、人の熱、気持ちも伝わります。最初の交流会でも30人を超える参加者がありましたが、現在では90人を超えることもあります。自分の経験からも、「ここへ行けば患者に会える」という場所があることは、有意義なことだと感じています。
ただ、患者会は寄付によって支えられており、スタッフは私をはじめ、皆、CML患者です。働きながら、主婦をしながらのボランティア活動なので、やりたいことは山ほどあるのですが、どうしても実施のタイミングが遅れがちになってしまう。これからも会を継続するために、マンパワーの充実や資金面の調達といった課題の解決を必要としています。

病気になって、幸せは“感じる心次第”で見つかることに気づいた

サックス 気持ちを音にして吐き出す爽快感が、
サックスの魅力

CMLになってからを振り返ると、本当に人生観が変わったと思います。
「いずみの会」の最初の交流会で、ある患者さんが「CMLになって良かった」と話されました。それまで当たり前だと思っていたこと、例えば、子どもと食事をする時間がこんなにも幸せなものなのか、と気づけたからだとおっしゃるのです。私も同じ思いです。「青い鳥」ではないけれど、幸せは探しても見つからない、感じる心を持つことで見つかるのではないでしょうか。人の寿命、例えば時間をX軸にとり、どれだけ心が動いたかをY軸にとった時にできる面積が、その人の人生の豊かさである、長く生きればその分様々な経験ができるけれど、その人生は必ずしも豊かだとは限らない、ということを、病気に気づかせてもらいました。
病気になって、自分の知らないことに気づいたり、教えてもらったり、感謝したりと様々なことを感じ、考えさせられました。病気をしないでそのまま定年を迎えていたら、たぶん頭の固いおじいさんになっていたでしょう(笑)。人生にマイナスはあるけれど、それと同じだけプラスもある。だからマイナスが深いほどプラスも大きい、そんな気がします。
気分転換をしたくなったら、妻と旅行へ行きます。環境を変えれば日常のことはある程度忘れられますし、緑豊かな山々を見たり、きれいな海を見たりすると「ああ、人間も自然の一部だ」なんて、心が洗われてリフレッシュできます。また、最近は、孫と遊ぶ時間が持てるという幸せも増えました。自分の子と違って、ただかわいがる、ということができますから(笑)。自分と血のつながった一つの命が生まれて、「この子がだんだん大きくなっていくんだな」という感慨を覚えて、「ああ、幸せだな」と感じています。
CMLと診断されてから、「やりたいことはやっておこう」という思いで、サックスを始めました。学生時代にブラスバンドで吹いていましたが、それから35年以上経って再びレッスンを始めたのです。吹く時は腹式呼吸を意識するのですが、その時の自分の感情をそのまま音にして吐き出すような感覚があり、その爽快感がサックスの魅力ですね。将来、ストリートミュージシャンになることを夢見ています(笑)。

CMLランナーズ 私の一足

修繕して履き続けている「バドミントンシューズ」

修繕して履き続けている「バドミントンシューズ」

靴底を接着剤で補修して、
愛用しています

バドミントンは、社会人になってから会社のクラブに入って始めました。仕事が忙しくなったら休止して、時間ができたらまた参加して、という感じでしたがずっと続けていました。妻とは、そのバドミントンクラブで知り合って結婚したんです。
CMLになった時は「ああ、もうできないかもしれないな」という思いもあったのですが、体調が落ち着いてきてから「自分の体を信じて運動してみよう」と、再開しました。治療による骨髄抑制で、ヘモグロビン値や赤血球数が基準値を下回っていたので、体は重く思うように動けませんでしたが、汗をかいた後の気持ち良さを味わうことができたし、ビールもうまかったし(笑)。できれば続けたいなと思い、市で運営しているバドミントン講習会に参加したり、そこで知り合った人たちと体育館を借りて練習したりするようになりました。本当は妻も一緒にやってくれるといいのですが、「もうできません」と言われてしまって…。
このシューズは、昔から履いているものです。再開するにあたって、探し出し、はがれていた靴底を接着剤で補修して愛用しています。バドミントンを再開したことで、CMLでも運動ができるんだという自信につながりました。