みんなの体験記CMLランナーズ

取材者より

大森さんは、お話しているだけでパワーが伝わってくるような、明るく元気な方でした。発症時まだ中学生と高校生だったお子様のことを思いやるご様子に、素敵なお母様だな、と感じました。
インタビューでは、退院後、仕事に復帰したら同時に複数のことを考えることができなくなっていて、「何か頭を使うトレーニングをしなければ」「頭を使うなら語学だろう」と韓流ブームに乗って韓国語を習い始めた、といったエピソードもお聞かせ下さいました。ご自身が辛い時でも楽しくなる方向に目を向けて、病気を前向きに乗り越えられてきたんだろうな、と思いました。

「5年の命」と告知されたが冷静にメモを取っていた

私がCMLと診断されたのは、2000年4月でした。
総合病院で婦人科検診を受けたところ、「白血球数が多かったので、内科で再度検査を受けて下さい」と電話がかかってきました。それで内科で再検査を受けたのですが、やはり異常があるとのことで、今度は血液内科のある大学病院を紹介され、再々検査とマルクを受けることになりました。
検査を受けている間は、そんなに大きな病気にかかっているとは思いもしませんでした。それに、当時は仕事と子育てに追われ、忙しさの絶頂期。疲れていたので、むしろ「ちょっと入院したら休めるかも」と思ったくらいでした
検査後、大学病院から「ご家族と一緒にいらして下さい」と連絡があり、夫と一緒に行きました。先生から、慢性骨髄性白血病、CMLであると病名を告げられ、「直ちに治療を受けないと急性転化して5年の命。すぐに治療に取りかかったほうがいい」というお話がありました。見通しの明るい内容ではありませんでしたが、若い頃から何かあっても「何とかなるわ」と楽天家だった私は、この時も「大丈夫じゃないかな」と、死ぬ気がしなかった。冷静でした。メモを取りながら心の中で「ふむふむ。あとで調べましょう」と、そんな感じでしたが、会社を経営している夫は、会社の経理と家のことを私に任せていたこともあり、私の命と今後のことを思い大きなショックを受けた様子でした。
高校生と中学生だった子ども達にも、先生から伺ったことをそのまま伝えました。もともと体が丈夫で病気とは縁遠かったこともあってか、子ども達の反応は「そんな冗談言っちゃって」と(笑)。「仮に本当だとしても、ママなら大丈夫だよ」と言ってくれました。私も「平気、平気」なんて言って、あまり深刻な雰囲気はなかったですね。

甘く考えていたが本当に辛かった最初のCML治療

CMLの告知後、すぐに入院して治療を開始することになりました。当時は分子標的治療薬が日本で承認されておらず、毎日自己注射する治療が主流でした。
それまで風邪をひいたり、出産をしたりと人並みの経験はしてきていたので、「治療もそんなものだろう」とタカをくくっていたのですが、今になって思い返してみると、当初の考えは甘かった(笑)。注射をした途端に高熱、筋肉痛、頭痛、倦怠感、食欲不振などいろんな症状が一遍に出て、急に病人らしくなってしまいました。
退院しても、仕事に復帰できる状態ではありませんでした。家族のために、ご飯づくりと洗濯だけはやっていましたが、日中はほとんどソファに横になり、夕方に薬が切れて少し楽になった時に動くのが精一杯、その後、夜に注射をしたらまた具合が悪くなる。毎日こんな風で、フィラデルフィア染色体は2/20まで減っていたものの、先が見えなくて「この治療はいつまで続くの?」と世を儚んでいました
薬によって人工的にうつ状態になっていくことも辛かったです。人と接するのが嫌になり、家のインターホンが鳴っても出ず、電話線も抜いてしまいました。ある日、4階のベランダから下を見て「飛び降りたら楽になるかもしれない」と思った時に「これは危ない」と気づき、先生に「もうこの治療を続けるのは無理です」と相談しました。先生は「新薬がもうすぐ日本で承認されそうだから、もう少しだから頑張って」とおっしゃいました。それで、切羽詰まった中「あと少し、もう少し」と自分を励ましながら注射を続けました

辛さを受け止めてくれた看護師さんに救われた

CML治療は長いので、治療法の選択や治療費のことなど、問題がたくさん出てきました。私の通っている病院では患者一人一人に医師と看護師で構成されるチームが付き、相談に乗ってくださいました。
診察日、具合の悪い時は待合室のソファに横になって診察を待っていたのですが、そうしているとチームの看護師さんが「どうですか?」と聞いてくれて、「ここの具合が悪い」と言うと「そうなの、大変ですね」とうなずいてくれるんです。データ上は異常がなくても、本人としては辛い時があって、そういう時に「大丈夫、問題ないですよ」と簡単に言われるとガックリしちゃうんです。でも、そうではなく、病気のこと、家族のことなど私の背景を掘り下げて聞き、受け止めてもらえたことで随分と救われました
私はそんな状態でしたが、子ども達は意外と元気にしていました。入院した時は、友達をたくさん連れてきて「へぇ、病院ってこんなふうになっているんだ」なんて言って、楽しんで帰って行きましたし、退院して私が家で横になっていても、普段通り好き勝手にしていました(笑)。たとえ寝ていても母親が家にいれば、子どもはわりと安心できるみたいですね。

待ちに待った分子標的治療薬を飲み始めた日から、心身ともにパーッと晴れた

治療が辛かった最中に、主治医から「もうすぐ日本で承認されそうだから」と伺った新薬の存在は、実はその前に米国に住む友人から聞かされていて、知っていました。米国では既に承認されていたので、友人は「こちらに来て治療しなさい」と言ってくれていたのですが、子どもを日本に置いて行ったら世話をする人がいなくなってしまうし、その新薬は日本ではまだ話題にもなっておらず、どのくらい効果が期待できるのか分かりませんでした。それで、日本に留まって承認を待つことに決めました。
そんな経緯もあり、待ち望んだ新薬である分子標的治療薬が日本でも承認され初めて注射器ではなくカプセルを手にした時は、「どんな副作用が出るかは分からないけど、もう飲むだけでいいんだ」と、そのことがまずうれしかったです。そしてその薬を飲み始めた日から、ひどかった筋肉痛や関節痛が消え、心がパーッと晴れました。間もなく細胞遺伝学的完全寛解に到達し、家族と涙を流して喜びました。

※この記事は、2012年7月当時の取材に基づいています。

今度は進行子宮体がんに。
二重がん治療によるCMLの急性転化が怖かった

当時の愛車マークⅡ 入院時毎日お見舞いに来てくれた夫と、
当時の愛車マークⅡ

分子標的治療薬で治療を始めてから仕事に復帰しましたが、それも束の間、2003年秋に今度は子宮体がんになっていることが判明しました。ステージは進行しており即入院、手術となりました。
私自身は冷静でしたが、まだ高校生と中学生だった子ども達は「どうしてうちのママばかりこんなことになるの」と言って泣きました。「この子達が成人するまでは死にたくない」と心底思いました。
手術を受け、その後始まった抗がん剤治療は想像以上に辛いものでした。副作用で数値が下がり、ひどい吐き気に苦しみCMLの薬が飲めなくなりました。手術前に、「もし抗がん剤治療の時にCMLが悪化したとしても、骨髄移植は子宮体がんになった時点でリスト落ちしているので受けられません」と言われていたので、もし急性転化したら死んじゃうしかないのか、と思いとても怖かったです。
抗がん剤治療は6クールで、半年間入院と退院を繰り返しました。この間、入院中に友達になった方々が亡くなられたり、受験を控えていた子ども達の面倒を十分に見てあげられなかったりしたことも辛かった。また、退院してぐったりしている時も担当している仕事だけはこなさなくてはならず、短時間でも辛かったです。
この頃、私は身体的にも精神的にもボロボロでした。そんな中で幸運だったのは、血液内科でお世話になった看護師さんが婦人科に異動されていて、再会できたことでした。病気のことや家族のことなど、その時に気になっていることを話すだけでとても楽になりました。
友人達の存在も大きかったです。病院の方が「こんなに大勢の方がお見舞いに来るなんて初めてですよ」と言うくらいたくさん来て下さって(笑)、子どものことを心配して「ご飯はうちで食べさせてあげるからいいわよ」とか、「うちの子と一緒に勉強しろって言ってあげるから」とか。とても有難かったです。
手術前、先生には「1年以内に再発する可能性が高い」と言われましたが、幸運なことに今に至るまで再発はしていません。

同じ経験をした者同士のつながりを大切にしたい

CMLになって感じたことは、同じ病気の方と接する機会がない、同じ経験を共感し合う場がない、ということです。インターネットでCMLの患者さんを探して、ブログを拝見して「分かる、分かる」と、そうやって他の患者さんはどうしているのか知るしかありませんでした。やはり、CMLになったその身でないと、どのくらい辛いかは分からないだろうと思うんです。治療を始めた頃は「このしんどい思いを、誰かに分かってほしい」と、ブログを書かれていた方に思い切ってメールをして、それからしばらく、連絡を取り合ったりもしていました。
そんな思いを抱えていたところ、2007年頃、新聞を見ていたら血液疾患の情報提供をしているNPO「つばさ」が紹介されていて、「電話で相談」と書いてあるのを見つけました。すぐに電話して「こんな状態なんですけれど」と話したら、「大変でしたね」と言われて、それが涙が出るくらいうれしかったのを覚えています。その時に、「今度CMLだけの患者会が発足するので、よかったら来ませんか?」と言われて参加したのが、CMLの患者会「いずみの会」の発足式でした。
同じ病気の方と共感し合いたいという思いが募っていたので、初めて患者会に参加してCML患者さんばかりの輪の中に入った時、自分が解放できてとてもうれしかったです。会の最後に「今後、運営のお手伝いをして下さる方はいらっしゃいませんか?」と声をかけられ、「こういう機会を1回の参加で終わらせたくない」と思ったので、スタッフとして参画することにしました。今までいろいろな人に助けられてきたことへのお返しをしたい、という思いも強くありました
同じ経験をしている者同士「分かり合える」というのは、大切だと思います。例えば、私の場合は副作用でむくみがひどくて、顔が丸くなっていたんです。でも、知り合いに会うと「ふくよかに、元気になってよかったね」と言われるので、「そうじゃなくて、薬の副作用なのよ」とはじめは説明するけれど、それが次第におっくうになってくる。患者同士だとそういう気持ちが分かるから、気付いたことがあってもあえて触れない。
フォーラムに来られる方と接する時も、その患者さんの気持ちになってお話を聞くよう心がけています。それは私が辛い時、病院のみなさんが気持ちに寄り添って話を聞いてくれたことで救われた、という経験があるからです。ついつい「こうすれば楽だった」と自分の体験を話しそうになりますが、「これでは押しつけになっちゃうかもしれない」と思って、聞かれたら話すように気をつけています。これからも、CMLの患者さん達に「一人じゃないんだよ」、「自分を解放してもいいんだよ」ということを伝えていきたいと思っています。

忙しくしていたからあまり悩まずにいられたのかもしれない

原付バイク この原付バイクで、娘のもとへ
よく駆けつけました

CMLを発症して13年目に入り、CML発症当時には考えられなかった休薬試験に参加しています。今は毎日、元気に仕事や家事、趣味を楽しむ普通の生活をしています。
長女は結婚し、孫も生まれました。孫が生まれた頃は、娘から「お母さん、熱が出ちゃって大変!」なんて電話が頻繁にかかってきたので、夜中でも原付バイクをピューンと飛ばしてよく駆けつけていました。当時は分子標的治療薬を服用中だったので、手足がつりやすかったんですが、運転中に手足がつってきて、「危ない」なんてこともありました(笑)。よくやっていましたね。その孫も大きくなって、今は保育園の年長クラスに通っています。
自分の体が大変な時でも、子どものことや仕事のことなど、待ったなしで目の前にいろいろなことが出てきました。忙しくしてきたから、あんまり悩まずにここまでこられたのかもしれません。いろいろありましたが、今はとても幸せです。

CMLランナーズ 私の一足

小さくなって履けなくなった「バドミントンシューズ」

小さくなって履けなくなった「バドミントンシューズ」

今は小さくて
履けないシューズです

CML発症時に、先生に「激しい運動はしないでくださいね」と言われて、泣く泣く諦めた趣味のバドミントン。高校の同窓会でバドミントン同好会の仲間と再会したのがきっかけで、「以前のようにはできないだろうけれど」と再び始めました。男女4人ずつのメンバーで、練習を再開してしばらく経ってから病気のことをある程度話しました。手足がつったり、貧血で動けなくなってもあまり心配をかけないようにと思ってです。
最初は「手足がつったらどうしよう」と思っていましたが、みんなも同い年なので、思うように動けなかったりつってしまったり、と、にぎやかに楽しくやっています。私も面白さにはまって、手足がつったままでも動けるように(笑)。
時々はバドミントン以外のこともしようと、この間は「月島巡り」をしました。もんじゃ焼きを始めに4軒はしごして、最後は焼き肉で締めました(笑)。友人は財産ですね。
写真のシューズは、CMLで服薬治療をしていた頃に履いていたものです。下痢しやすかったので体重が増えなくて、痩せていたんです。それが、休薬試験に参加してから体重が増えたので、このシューズは小さくなって、履けなくなりました。